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2013/03/25

旅館いちぼう 松川浦-相馬市-福島県

何が出来るか探しに被災地に行った中、最も大きな印象を持ったのがこの 旅館いちぼうの女将さんの話だった。
あの時を思い出させて申し訳なかったが、被災された方一人一人皆ドラマがある筈だ。ただこういった悲惨な事を繰り返さない為に未来への提言としてここに紹介する。今回始めて知ったが相馬の中で松川浦は風光明媚な海を持ち、沢山の人々を癒しや楽しみを提供していた場所だったという事。これからが本当の復興が始まる。地盤が下がり干潟が無くなったと言っていた女将さんの言葉。今後、どのように松川浦を再生させるか見守る事と応援をしたいと思う。

旅館いちぼう 外観 2013-03-23

旅館いちぼう 外観 2013-03-23

いちぼうさんからの南の眺め
松川浦は風光明媚な場所だ。

いちぼうさんからの眺め

いちぼうさんからの眺め 2013年3月23日

いちぼうさんに泊まったのは完全に偶然だった。
松川浦という地名も知らず、南相馬から北上して行き着いたのがこの松川浦で比較的泊まれる場所が多そうだったからだ。
はじめに飛天という温泉旅館に行ったのだが、今は作業をしている人が中心で泊りは受け付けてないと言われた。もう一件聞いたがやはり満員。
で、高台に有ったこのいちぼうさんに登って車を停め、『今日は泊まれますか?』と飛び込みで聞くと、夕食はカレーですけどそれでよろしければどうぞという事でお世話になった。


大きな地図で見る この地図は被災後の状況を上から見られる いちぼうさんの下の旅館もゼンリンの地図にはまだ有る。

前日、慣れない旅をして枕が合わなかったのと寝間着が合わず眠れなかった。(2時に寝て4時に起きた)でうつらうつら7:30まで寝たのだが、そのまま起きて警戒区域を迂回しながら南相馬に着いたりで、多分疲れとストレスが溜まっていたのだろう。

頭がガンガン痛く、旅館にお世話になり、女将さんに、すいません。頭痛がひどいのでバファリンありますか?と聞くと、水とバファリンを持ってきてくれた。明日必要だったら明日も言ってくださいねと言われ、ありがとうと言い。その日は夕食を大広間で頂いて、その後、頭も痛いのでそのまま寝てしまった。

夜10:00過ぎに起きたがまたそのまま朝の7:00頃まで寝た事でお陰で体調をよりひどくする事は無かった。

翌朝、朝ごはんをいただき、精算した後だった。
女将さんに色々と話を聞くことが出来た。まだ覚えて居るうちのその話を書こう。

地震その後、
いちぼうさんは高台にある。

ちょうど松川浦の干潟の沖の方から津波の第一波が来るのを見てました。

南の方が眺めが良いので、ずっと沖のほうに綺麗に白い波頭が立って第一波が来るのが見えました。
ずっと近づいてくるにしたがって、その後に何か真っ黒い津波の第二波が覆いかぶさって来たと思ったら、裏の方でバリバリバリと大きな音がしたので見に行くと、大きな波が家を押しやって、どんどん家が流されて行くところでした。
(後で地形を見ると分かるのだが松川浦の表と裏ではその地形が違う)

いちぼう 裏

いちぼう 裏

私達は呆然とそれを見ていましたが、波がどんどん上がってきて、目の前の高台の上の方まで来たので、これ以上来ると裏山の方に逃げるか、この建物の上に逃げるかしかありませんでした。何人かの人は上に逃げて行きましたが、その時この高台に居た人はほとんど駐車場で、その光景を見ていました。

まだ残る車

まだ残る車

私達の旅館はここだけじゃなく下にも岩盤浴がある旅館も有ったのですが、下の方はとにかくみな流されて行きました。
ここも沢山の方々が亡くなりました。
家が流れていったと思ったら、今度は引き波で、その引き波がひどくわ~っと皆海の方に持っていったんです。
その後、皆、ここに逃げてくる人がどんどん来て200人位になったでしょうか。全身びっしょりになっている人、もう水も電気もガスも勿論出ませんし、電話は通じません。

その時私の子供と孫達は仙台の方に買い物に行っていて、何度も携帯電話をかけるのですが全然通じませんでした。
私は子供に連絡が取れないので、できるだけ高いところに逃げてと言うつもりでしたが、電話が通じないので半ば子供は諦めました。多分、この津波だと助からないでしょうから。諦めていました。

その日は大変寒く、皆、家は流されているし行くところもありません。とにかく、毛布を出来るだけ出して全部の部屋と大広間から玄関までとにかく布団や毛布を敷いて200人程の人がここに避難してきました。ちょっとでも何か出来ないかと思って、旅館をやっているのでお米はあるんですよ。でも、お水が無い。ガスも出ない。そこで仕方ないのでお米を研ぐのはお風呂にお湯が有ったのと、全部の客室のポットの中のお湯を足して、カセットコンロが3つ程有ったのと新品のカセットの買い置きが有ったので、まずそれで一人一口二口食べられる位の温かいお粥を作りました。

もう、そんな時は何を考える訳じゃなくて夢中で困っている人を何とかしようという一心でした。
皆さんも暖かなものを口にできてちょっとはホッとされたと思います。
なんか、そんな事位しか私は出来ないので。

途中、子供の事も気になって、何度か携帯で電話をしたんですね。
すると一回だけ携帯がつながったんです。子供にはとにかく山の方に逃げて!早く逃げて!と言いました。

実は子どもたちは孫と車に乗っていて、後ろにマイクロバスが居て、前に車も居て動けない状態だったらしいです。
で、その時に車の後ろから津波が来て孫達は大声で助けてーという位だったと言っていましたが偶然右に迂回するところが有ってそこに逃げる事が出来てそこから高いところに逃げられたと言ってました。子供が後ろのマイクロバスも見たらしいですがもう流された後だったと。
本当に危機一髪だったようです。

実は孫は幼稚園の新入生だったんです。
ただ、それで奥さんの実家が長野の方だったので長野の幼稚園に新入で入りました。
それで1年後にこっちに戻ってくるときに、この絵を皆がプレゼントをしてくれました。

長野県?なんでだろう

長野県?なんでだろうと思っていた

私達の旅館にその時、北海道から仕事で来ている方々が居て、その方々もどうやって帰るか手段がありません。
結局、2日程、ここに居て、新潟から船が出ているというのでなんとか新潟から帰りました。
消防団の人が来たのがやはり2日後位でしょうか。

実はここは元は国民宿舎で、私達はここの建物を買って10年位なんですよ。
本当はこの流された下の方で旅館をずっとやっていたんです。
ところがこの高台の建物の東側が今思うと盛土だったんでしょうね。建物の西の方は岩盤の上だからなんとも無かったのですが東側が崩れ始めたんです。
建物が傾き始めるし、どうなるかわからないし、避難している人は200人位居るし、もうてんやわんやの状態でした。

皆、疲れきっていました。ここにたどり着くのもやっとの状態で鉛のように体が重くなって。

それで4日位経った時に消防団の人達が、避難所を公民館に作ったので皆、そこへ退避してくれと言われました。
ここに居たいと言いましたが、いや、何かあると何も出来ないので皆公民館に避難してくれと。
そこで仕方ないので200人程の皆、避難所に行きました。
年配の方々は動けないので、男性が皆で老人を担ぎ上げ、皆でぞろぞろと公民館に。

そのうちにボランディアの人が来てくれて旅館の内部をあっという間に片付けてくれ試しにお風呂のボイラーを使ったら使えました。本当にボランティアの方々には助けられました。
で、お風呂が使えるようになりました。
あと、うちは高台で電話線が下の方の人と違って別の線で来てたみたいで電話の復旧が早かったので、皆さんの電話交換手のような事をやっていました。

もう下の旅館の方々は破産しないと駄目だと言っていましたが、それからは復旧の作業員の方々を受け入れる事になり、旅館の方々と協力してとにかくちゃんとリフォームなんかしないで良いから壊れたところはとりあえず直して、観光のお客さんとは違って、とにかく食べ物と、寝る場所と、お風呂を用意して上げれば良いからと、うちでいっぱいだと他の回してとにかくお一人でもお二人でも旅館の皆さんと協力しながらやってきました。電話はうちしか通じないので本当に色々な事をやりました。

もう、1年間は何か無我夢中で。初めは瓦礫の片付けや、うちも実は建物の東側が崩れていたので建物が倒れるかもしれないし、そんな状態なのに人は一杯だし。もう主人も私も気が気じゃなくてまずやはり建物が崩れたら大変なので、知り合いの方に頼んでまず地盤の強化を途中入っていた仕事を空けてもらって早急に地盤を直してもらいました。

2年目は作業員の方々をとにかく受け入れる事でなんとかやってこれましたが、3年目になってこれからどうするかがまだわかりません。

松川浦は潮干狩りの名所だったのと海水浴が出来る場所だったのですがもう干潟ができなくなりました。下の方は海の水が上がるところもまだありますから、以前のようになるかどうか。

今回思ったのは命は大事だという事でした。
家族を亡くしてお金が沢山入った方もいらっしゃいますが、家族が居なくてお金が有っても仕方ないです。やっぱり家族が居る事がすごく大事だと感じました。

これからは法事もこの部屋でやるんです。
もうなんでもやって行かないと。やっと、そういう気分に皆がなって来たんですね。

法事用のお部屋

法事用のお部屋

女将さんどうもありがとう。また辛い思い出を思い出させてすみませんでした。
素敵な笑顔のおかみさん。
とうとうとお話いただいた事はまだアルバムのように心の中に一つ一つの出来事が刻まれている事を感じました。私の言葉など、どんな言葉でも表現することも不可能ですが少しでも皆さんの未来が開けるように応援したいと思います。ありきたりの頑張ってくださいなどという安っぽい言葉は添えません。

旅館いちぼう 女将さん どうもありがとうございました

旅館いちぼう 女将さん どうもありがとうございました

この長野の子供の絵の意味、フロントの両側に掛けてあった千羽鶴の意味。
色々な人々の心が詰まったものが有った。一緒に食事をした多分作業をしている若者の方や、まだ若い仲居さん達も皆、ドラマがある筈だ。
漁業が再開していないことで観光地の食材が提供出来ない事も心を痛めていましたね。
自分たちも大変なのに逆に気遣いをされる女将さんを見て、本当に母は強いと思いました。
男性は見習わなければなりません。

今回は沢山のボランディアの話をところどころで聞きました。
そんな沢山の若者たちが居る事に希望があると思っています。
是非、そんな若者たちが希望が持てる国にするために自分に何が出来るかを絶えず自問しよう。
この記事を見る人も居る筈だ。そんな人に修羅場を乗り越え生き残った意味を共に考え、今、自分が何が出来るかを共にやっていこうと呼びかけたい。

被災地へ行って思ったのは、今はまだ皆が被災地へ行く必要は無いという事でした。実は国がかなりの勢いで復興に手を入れています。広野町のファミリーマートではレジの渋滞が出来る程、多分除染に従事していいる人々が買い物をしていました。

福島の南相馬では省庁名の入ったゼッケンをつけているトラックがひっきりなしに通っています。
旅館では、作業員が長期で滞在している人も沢山いました。(どうやら宿泊先は自分で決められるようです。)
それらの復興の資金は自民党政権になってからまた増やしましたので確実に被災地に届いている感じがしました。(勿論ここでも濃淡はあると思います。)

いちぼうさん裏の山を削る

いちぼうさん裏の山を削って住宅を移転させるようです

松川浦の漁業は福島の放射能の影響でいまだに漁業再開の許可が出ていないとの事。
あとで色々と調べてみると、松川浦の動画はかなりありました。
震災時から震災直後。それらの動画を見ると今は大分整理が出来たように思います。

今は片付けが殆ど終わり復興の作業員の方の受け入れをしている最中ですが、それが終わった後の松川浦をどう復興していくかが大きなテーマとして横たわります。

今、生きている事を実感し、弱い弱い自分ですが生きている意味を作り出せるように努力して行きます。

この動画はグーグル+で、中国の日本の事を好きで居てくれている大学生が送ってくれました。
andrew wallace20:53 – 一般公開
福島、頑張ってください。

平成25年3月25日記述
なび特派員千葉
新城


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